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お通夜でのドンチャン騒ぎの勧め

2025年8月3日

昔、私の子供時代にはお通夜で親族・知り合いどうしがお酒を飲み交わし、夜遅くまでドンチャン騒ぎする光景がありました。

お酒を飲むきっかけが出来たとばかりに悪乗りしていただけの人もいたでしょうが、それはそれで今思い起こすと人間らしい事だなと感じます。

今の個人主義・合理主義の世の中には無い良さがあるかと思い、AIで「お通夜でのどんちゃん騒ぎの意味」と調べてみました。


お通夜で「どんちゃん騒ぎ」をする風習には、日本の伝統的な死生観や地域の文化が反映されており、以下のような意味や意義があります。

1. 故人を偲び、その人らしく送るため

故人が生前、賑やかなことが好きだった場合、静粛な葬儀よりも、笑いや歌のあるお通夜の方がふさわしいと考えることがあります。特に長寿で天寿を全うした場合、「悲しみ」よりも「感謝」や「祝福」の気持ちが強く、故人の人生を賑やかに偲ぶことが供養になるとされています。宮城県などの一部地域では、「遺体の前で飲み食いするのが供養の一環」と捉える風習があり、故人と最後の宴を共にする意味合いがあります。

2. 遺族の悲しみを和らげるため

葬儀は遺族にとって精神的に大きな負担がかかります。お通夜で親族や友人と酒を酌み交わし、故人の思い出を語り合うことで、緊張や悲しみを一時的に緩和する効果があります。「悲しむ間を与えない」という考え方もあり、特に農家や地域共同体が強いところでは、近所の人々が遺族を気遣い、食事や酒を振る舞うことで、孤独な悲しみに沈むのを防ぐ意味合いがあります。

3. 地域や親族の結束を確認する場

昭和初期やそれ以前の農村社会では、葬儀は単なる個人の弔いだけでなく、地域社会の結束を確認する重要な機会でした。お通夜で飲食を共にすることで、互いの絆を再確認し、助け合いの精神を維持していました。特に東北地方などでは、葬儀後の「精進落とし」や「通夜振る舞い」で親族や近所の人々が集まり、故人の思い出を語り合うことが慣習化されています。

4. 死を身近に受け止める「弔いの文化」

日本では、死を「忌むべきもの」として遠ざけるのではなく、むしろ「人生の一部」として受け入れる文化があります。そのため、お通夜で酒を飲み、笑い話を交えながら故人を偲ぶことで、死に対する恐怖感を和らげる効果があります。子供たちがお通夜に参加し、遺体の前で普通に話しかける光景も、死を自然なものとして受け入れる教育の一環と捉えられることがあります。

 5. 現代における変化と多様化

都市部では「静粛な葬儀」が一般的ですが、地方では今も「どんちゃん騒ぎ」に近いお通夜が行われることがあります。特に高齢者の葬儀では「お祝いのような送り方」が受け入れられる傾向があります。一方で、若い世代や都市部の人々からは「不謹慎だ」と批判されることもあり、時代とともに風習の解釈も変化しています。

まとめ。コロナ後の社会

以上がAIの回答ですが、コロナ後の行き過ぎた合理主義・個人主義で、無駄なものを排除していく流れが加速しています。

結婚式や葬式の簡素化・学校のPTAや子供会の解体・学校の部活動縮小・地域行事(祭りや自治会)の縮小・企業での飲み会の縮小・・・挙げればきりがありません。

この流れの中でAI・デジタル決済が加速しているのも意味があるのかもしれません。

人間にとって死は受け入れがたく、理解できるものではありません。それに対してどんちゃん騒ぎをするというのは、とても人間的な行為ではないでしょうか。

人の死の前で残ったもの達が絆を深める・・・どんちゃん騒ぎするのが良いと言っているわけではなく、人の死の前で絆を深める事は重要な事でとても人間的なものだと思います。

お通夜の「どんちゃん騒ぎ」は、単なる宴会ではなく、故人を偲ぶ独自の弔い方であり、遺族の心のケアや地域の結束を深める役割もあるので率先してやっていこうと思っています。

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